美術展(美術館)情報を交換し合っている仲間の間で、今年最も話題になっている美術展。
それが、『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才』です。

【エゴン・シーレ作 ”ほおずきの実のある自画像”】
2023年に日本で開催される展覧会の内、ベスト3に入る美術展でしょう。
エゴン・シーレの本格的な個展が日本で開催されるのは30年ぶりです。
仲間の内の3人が既に当展覧会へ出掛ける計画を立てています。
エゴン・シーレ展は巡回予定が無く、東京都美術館での開催のみ❕
う〜むっ! 東京かぁ、迷うなあ。
エゴン・シーレ、どんな人物だったか記しておきます。
【エゴン・シーレ(Egon Schiele)】
1890年6月12日オーストリア(ウィーン)生まれの画家 - 1918年10月31日28歳で没
当時盛んだったクリムトらのウィーン分離派を初め象徴派、表現主義に影響を受けつつも独自の絵画を追求。
強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を製作し、見る者に衝撃を与える作風から表現主義の分野に於いて論じられる場合が多い。
16歳の時にクリムトと同じウィーン工芸学校に学ぶ。
その後よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場でるウィーン美術アカデミーへ進学した。
因みにシーレが同アカデミーに入学した1906年の翌年と翌々年にはアドルフ・ヒトラーが受験しているが不合格となった。その理由は「技量が十分でないから」であった。
1915年6月17日結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレは召集された。
作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてこの出来事はシーレの飛躍に繋がる結末となった。
軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。
彼は主に捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。
更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。
1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開、それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めた。
シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになった。
最晩年の2年間でシーレは画家として大ブレークし大成したのである。
同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区に新アトリエを構えた。
高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)に罹り、シーレの子供を宿したまま10月28日に死去。
シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、エーディト死の3日後(10月31日)に亡くなった。
享年28歳はあまりにも早過ぎる画家人生だった。
長生きしていたら、ピカソと並び称される20世紀最高の巨匠となっていた、と評する人も少なくない。
臨終に際してシーレは・・・、
「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」
と語っている。
エゴン・シーレの作品から僕が受けた印象を、勝手に記します。
シーレは、自分の直感に基づいた作品制作を行い、これらを自ら「ヴィジョン」と呼んでいた。

これはシュルレアリズムの先駆け、とも言えるのではないだろうか。
またシーレは、他の画家に例を見ないほど沢山の自画像を描き残していて、点数は100点以上に登る。
その表情は挑発的であり、ある時は露悪的な表情を、またある時は叙情詩人のように表したりする。


彼は自己陶酔型人間であり、典型的なナルシストだったのではなかろうか。

”エゴン・シーレ”、神秘的で深遠な謎を秘めた不可思議な画家。
時間が取れたら東京都美術館に出掛けてみたいと思います。
それが、『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才』です。

【エゴン・シーレ作 ”ほおずきの実のある自画像”】
2023年に日本で開催される展覧会の内、ベスト3に入る美術展でしょう。
エゴン・シーレの本格的な個展が日本で開催されるのは30年ぶりです。
仲間の内の3人が既に当展覧会へ出掛ける計画を立てています。
エゴン・シーレ展は巡回予定が無く、東京都美術館での開催のみ❕
う〜むっ! 東京かぁ、迷うなあ。
エゴン・シーレ、どんな人物だったか記しておきます。
【エゴン・シーレ(Egon Schiele)】
1890年6月12日オーストリア(ウィーン)生まれの画家 - 1918年10月31日28歳で没
当時盛んだったクリムトらのウィーン分離派を初め象徴派、表現主義に影響を受けつつも独自の絵画を追求。
強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を製作し、見る者に衝撃を与える作風から表現主義の分野に於いて論じられる場合が多い。
16歳の時にクリムトと同じウィーン工芸学校に学ぶ。
その後よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場でるウィーン美術アカデミーへ進学した。
因みにシーレが同アカデミーに入学した1906年の翌年と翌々年にはアドルフ・ヒトラーが受験しているが不合格となった。その理由は「技量が十分でないから」であった。
1915年6月17日結婚の3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレは召集された。
作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてこの出来事はシーレの飛躍に繋がる結末となった。
軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。
彼は主に捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。
更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイディアの製作に打ち込んだ。
1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時にクリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開、それまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めた。
シーレの絵の価格は上昇し、要望を受けて次々と絵の買取依頼が舞い込むようになった。
最晩年の2年間でシーレは画家として大ブレークし大成したのである。
同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区に新アトリエを構えた。
高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)に罹り、シーレの子供を宿したまま10月28日に死去。
シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、エーディト死の3日後(10月31日)に亡くなった。
享年28歳はあまりにも早過ぎる画家人生だった。
長生きしていたら、ピカソと並び称される20世紀最高の巨匠となっていた、と評する人も少なくない。
臨終に際してシーレは・・・、
「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」
と語っている。
エゴン・シーレの作品から僕が受けた印象を、勝手に記します。
シーレは、自分の直感に基づいた作品制作を行い、これらを自ら「ヴィジョン」と呼んでいた。

これはシュルレアリズムの先駆け、とも言えるのではないだろうか。
またシーレは、他の画家に例を見ないほど沢山の自画像を描き残していて、点数は100点以上に登る。
その表情は挑発的であり、ある時は露悪的な表情を、またある時は叙情詩人のように表したりする。



彼は自己陶酔型人間であり、典型的なナルシストだったのではなかろうか。

”エゴン・シーレ”、神秘的で深遠な謎を秘めた不可思議な画家。
時間が取れたら東京都美術館に出掛けてみたいと思います。
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